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今、聖十字架学園は、にわかに活気付いていた。
話題の転校生であり、黄金トリオの1人である、アレン・ウォーカーが
「僕も何か部活しようかな」
と言い出したのである。
「アレンくんって、剣道には興味あるのかなあ?」
「結構、スポーツのクラブも回ってるみたいだぜ」
「あのおとなしい顔に竹刀って、萌えるよな~」
「…………」
隅で素振りをしていた神田の顔は、眉間に皺が寄って鬼の如き形相になっていた。
現在、神田の所属する剣道部は、その話題で持ちきり。全く練習になっていない。
今の時期は、特に大きな大会もないので、もともとのんびりとした空気で練習を行うのだが(神田はいつでも緊迫しているが)、アレン騒動のおかげで、道場は完全な井戸端会議の場と化していた。
別に、他人が練習をしていようがしていまいが、関係ない。
相手がいなければできない練習もあるが、1人でできる練習もある。
最近はなんとなくイライラするので、むしろ1人の練習の方が落ち着く。
練習中は、心を無にして自分だけの世界で剣道の世界に入ることができる。自分と剣道以外のものをシャットアウトして、ただただ練習を重ねる。それが、神田の常だった。
それなのに。
「つうか、マジ可愛いよなアレンくん。なんつうの、癒される?」
「この前アレンくんが、オレの方を見て微笑んだんだよ!あの可愛さったらないね!」
「バカ、それはお前を見て笑ったんじゃねえよ、きっと」
「いや、オレの目を見て笑われたね!」
(……うるせえ……)
いつものように、集中している。周りの雑音は、シャットダウンしている。
そのはずなのに。
アレン・ウォーカーという単語が、耳に入ってくる。
今、道場内はアレンの話題でもちきりだ。
そのため、道場中の会話が耳に入ってくる。
こんなことは、剣道を始めて十数年、初めてだ。
(クソッ……)
あいつが、自分のテリトリーに入って、邪魔をするからだ。
……神田は、今何を思い出してるんですか?
(……何も!)
神田は、竹刀を力いっぱい振り下ろした。
「あら、神田」
「今日は当番か?ご苦労だな」
神田が科学室に行くと、1年のリナリー・リーと、教師であるリーバーがいた。
2人とも神田とは昔からの知り合いで、フランクに声をかけてくる。
リナリーは小学部からの知り合いで、若くして学園の教頭の座に就いた、コムイ・リーの妹だ。このコムイが神田を気に入っているため、自然とリナリーともよく顔を合わすようになった。長い黒髪とすらりとした脚が魅力の美少女で、学園内でも正しく高嶺の花な存在だ。外見からおとなしい性格と思われがちだが、実ははっきりとものを言う、気の強い性格をしている。
兄のコムイも加えて、神田は彼女が苦手だ。もちろん理由はその気の強い性格にある。なぜかリナリーに強くものを言われると従ってしまう。年下なのに、姉のような存在だ。
ちなみに、兄のコムイについては、よっぽどのことがないと関わりたくない程の苦手意識を持っている。変人なのだ。
そして、リーバーは、同じ孤児施設で育ったため、もっと古くからの知り合いだ。
神田よりも10近く年上で、面倒見がいい性格で昔から何かと神田のことを気遣っていた。まあそれは神田に限ったことではないのだが、要するに人が良すぎて要領が悪いのだ。
リーバーはコムイの高校時代からの後輩で、大学まで彼と一緒だった。科学の教師を目指し、教員免許を無事取得したところ、コムイの推薦されてこの学園にやってきた。それまではコムイが科学教師だったのだが、そのタイミングで彼が教頭になった。後輩ということでコムイにいろいろとこき使われているリーバーは、教師なのに毎日夜中まで残業続きで、かなり気の毒な人物ではある。
しかし面倒見のよさはいかにも教師向きで、生徒からは厚く慕われている。
「今日はなにを準備しておけばいいんだ?」
ぶっきらぼうに言うと、ビーカーなどの道具をいくつかと、薬品を指示される。少し数が多いことに舌打ちしつつも、神田は棚から道具棚に向かった。
神田は、素行の悪さでは学園ではピカイチだが、妙に律儀なところがあるので、文句を言いつつも日直などの係が回ってくると、きちんと役目は果たしていた。案外こいつも面倒見がいいかもしれない、とリーバーは密かに思っている。要領が悪いところも似ている。
まあ、今の場合はリナリーがいるからおとなしくしている、というのもあるだろうが…
「おい、これでいいのか…」
試験管を手にリーバー達を振り向いた神田が、一瞬固まった。
「おお、それでいいぞ…って、どうした神田?」
神田はリーバーが胸に抱いているものを凝視して、固まっていた。
(なんであいつがここにいるんだ?)
リーバーが抱いているのは、アレンの犬、ティムキャンピーだった。
「ああ、この犬か?今朝から預かってるんだ」
「中等部に編入してきたアレンくん、知ってるでしょ?あの子に頼まれたの」
隣でリナリーがティムを撫でながら笑った。
「……モヤシが?」
眉間に皺を寄せて、神田。それを聞いて、リナリーが眉根を寄せた。
「モヤシ……て、アレンくんのこと?」
「そんな名前だったっけか」
リナリーは呆れたように溜息をついた。
「つうか、なんでお前があいつを知ってるんだ」
「あの子、兄さんのお気に入りなのよ。それで、編入してきた時に紹介されたの。礼儀正しいいい子だから、友達になってもいいよって言われて、それで」
「室長の目にかなったんだから、大したもんだよアレンは。リナリー命だからあの人」
リーバーは、コムイが大学の研究室の室長だった名残でコムイのことを「室長」と呼ぶ。
「アレンくんからティムのこと聞いて。この子、怪我をしてるでしょう。学校に行ってる間、寮に置いておくのも心配だっていうから、リーバー先生のところにナイショで置いてもらってるの」
リーバーが、ティムを抱いたまま笑って頷いた。
確かに、リーバーは人がいいので、こういうことを頼むには最適な人物だ。ただ、彼のテリトリーが科学室で、危険な薬品も置かれている部屋だというのが気になるところだろうが、当のティムは怪我をしていて歩けない状態なのだから、問題はないというところか。
「……どいつもこいつも、あいつに振り回されてるな」
「みんな、それが分かってて自分から振り回されてるのよ。それだけアレンくんに魅力があるってことでしょう」
こともなげに、リナリーは笑う。
「確かに、あいつが編入してきてから、学園中えらいことになってるもんな。最近なんか、アレンが部活に入ろうか、って言っただけですごい騒ぎじゃないか」
ティムの頭を撫でながら、リーバー。ティムが気持ちよさそうに目を細めた。
「剣道部の奴らも、練習そっちのけでモヤシの噂話ばかりしやがる。迷惑だ」
神田が言うと、リナリーがおかしそうに笑った。
「なんだ。神田もアレンくんに振り回されてるんじゃない」
え?
そんなことはない。
「ねえよ。オレには関係ない」
ふふっとリナリーが笑う。だから、この女は苦手だ。
「でも、周りが振り回されてるから、神田も迷惑してることがあるんでしょ?しっかり振り回されてるんじゃない。アレンくん、ラビと仲良くなったしね」
「うっとうしいのが増えただけだ。あいつらがオレに構おうと構うまいと、どうでもいいさ」
そうは言ったけれど。
リナリーが言ったことも的確に事実を突いている。
アレンがラビに近づいたから、自分の周りをもちょろちょろされることになった。
アレンとつるむようになって、ラビが自分に話しかけてくる回数が増えた。学園内だけでなく、寮でまでいちいち絡んでくる。
アレンが犬なんか拾ったから、寮全体がにわかにそわそわし始めた。居心地が悪い。
アレンが部活に入ろうかなんていうから、剣道部が浮ついた空気になっている。
アレンが余計なことを言うから。
あの時のアレンの言葉と、封印したはずの記憶が頭をよぎる。
(何を思い出しているんですか?)
なにも!
「アレンくんと神田って、似てるわよね」
唐突にリナリーが言う。神田は、はっとしてリナリーの顔を見た。
「はあ!?オレとあのモヤシが?寝言言ってるんじゃねえよ!」
こんな風に凄んでも、リナリーはしれっとした顔で見返してくる。
「なんだか似てると思わない?仲良くしてみたら?」
「…………」
神田はリナリーをきつく睨んで踵を返した。
「おい、神田!どこ行くんだ、当番だろう」
リーバーが追いかけるように言うのに
「うるせえ!テメエの授業だろ!勝手にしろ!」
乱暴にドアを閉め、神田は科学室を後にした。次の授業はサボることに決めた。
モヤシとオレが似ている?冗談じゃねえ!
(神田もアレンくんに振り回されてるんじゃない)
振り回されてなんかねえ!
だが。
つい最近、自分の周りに姿を現しただけのあの少年のことで、なぜこんなにも自分はイライラするのだろう。
「あ~あ……昼休み終わりそうだな。実験の準備間に合うのかねえ……」
リーバーが困った顔で頭を掻くのを見上げ、リナリーが謝る。
「ごめんね。私が神田を怒らせたから」
ぺろっと下を出す少女も見下ろし、リーバーは苦笑した。
「わざとだろ?」
にっこりと笑って、リナリーがティムの頭を撫でた。
「私が実験の準備、手伝うわ。予鈴まであと少しあるし」
「当然だよ」
溜息を漏らして、リーバーは傍らに置いていたティム用のベッドとしてアレンが持ち込んだ籠にティムを寝かせた。きれいなタオルが敷かれていて、居心地がいいのか、ティムがあくびをした。
「なんでわざわざ神田を苛つかせるんだ?」
「だって、なんだかもどかしいんだもの」
棚から取り出したビーカーを、ひとつひとつのグループ用机に並べながら、リナリー。
「もどかしいって?」
「う~ん……なんていうか……」
リナリーは、首を傾げながら言う。
「神田って、いつもあんな風に機嫌が悪いけど、昔からじゃなかったじゃない。まあ、昔から人付き合いがいい方でもなかったけど」
ああ、と薬品を量りながら、リーバーも頷く。神田が小さい頃から面倒をみてきたので、神田のことはリナリーよりももっと古くから知っている。リナリーが言おうとしていることが、なんとなく分かってきた。
「別に神田に愛想良くなってもらおうとは思わないけど、ずっとあのことを引きずってるようには見えるじゃない?」
「ああ……そうだな」
まだ自分達が幼かった時のことを思い出して、少し胸が痛んだ。あの時は、自分たちもショックを受けたが、神田が一番落ち込んでいたのをよく覚えている。しかし神田は、誰にも弱みを見せないし、心の内を誰かに話すようなことは絶対にしないので、あの時の気持ちに一体どうやって整理をつけたのかリーバーも知らない。
だが、10年経った今でも引きずっている節があるのは、確かだ。
「今回のアレンくんのことって、あの時とすごくデジャブしてると思うの。きっと、それで神田も何かしら感じてることがあると思う。それでなくても、アレンくんのことはなんとなく気にしてるみたいだし」
リーバーは、少し驚いて顔を上げた。
「神田が?アレンを気にしてるのか?なんで?そんなに関わりないだろ?」
リナリーが呆れたようにリーバーを見た。
「教師も、少しは生徒の動向に目を向けた方がいいんじゃない?アレンくんがラビと仲良くなって、そのラビが神田に絡むものだから、3人で今この学園の黄金コンビって言われてるのよ」
リーバーが、呆れたように口を開ける。
「なにをしてんだ、ここの生徒は……」
「アレンくんが来てから、ラビが頻繁に、それもタイミングよく神田に話しかけるようになったものだから、お昼休みの食堂なんかギャラリーで一杯なのよ」
その光景を想像して、リーバーは少し情けなくなる。文武両道の名門校の真相が、それか。だが教頭があんなので、校長も理事長も頭がおかしい人たちなので、なんだかもう仕方ないのかもしれない……いや、教師である自分が諦めては駄目だ。
「とにかく、ティムのこともあるし、アレンくんって、神田の傷を癒すのに一役かってくれそうな存在だと思うの。アレンくんも神田のこと気になるから、ラビを仲介して近づいてるように見えるし」
「……え?」
アレンが神田に近づく?ラビを利用して?
「明らかに手回しがいいもの。アレンくんの神田へのアプローチって」
リナリーが試験管をすべてテーブルに並べ終えて振り向いた。
「でもきっと、アレンくんは神田を救うと思うわ」
神田は苛つく心もそのままに、乱暴に屋上のドアを開けた。
授業をサボる時は、いつも屋上に来ている。屋上をさらに上がった、屋上への入り口がある廊下の天井にあたるスペースに、竹刀を隠し置いてある。
授業をサボる時というのは専ら気持ちが荒れている時なので、いつも屋上で素振りをして過ごしていた。
屋上といえば、不良の溜まり場の定番なのだが、この学園の屋上は、神田専用のスペースと化していると言ってよかった。神田は小学部の時点ですでに、縄張り争いで高等部の先輩をシめている。今更神田に逆らおうとする相手など、いるはずがなかった。
ここは、東京にいながらにして、空が広い。
神田は、素振りをする前に、いつものように屋上に寝転がった。しばらく、じっと空を見上げる。こうすると、少しずつ心がほぐれてゆき、荒ぶった剣を振るような、みっともない真似をせずに済むようになる。
空には、誰もいない。
自分に干渉してくるものが、なにもない。
どこまでも続く広大な空は、自分の可能性を見ているようで、心が澄んでいった。
そっと目を閉じる。
目を閉じた時の瞼の中は、太陽の光に照らされて、明るかった。
こんなところで終われない。
あんな子供ひとりのことで、心を乱されたりしない。
大丈夫。
「神田?」
唐突に聞こえた声に、神田は驚いて目を開けた。
と、真上にアレンの顔があるのが最初に目に入り、もう一度仰天する。
不覚にも、それが顔に出てしまった。それを見たアレンが、ぷっと吹き出す。
「気付かなかったんですか?さっきからずっとこうしていたんですよ」
にこにこと、体制を崩さずに神田を見下ろしながら笑う。
寝転んでいる真上にアレンの顔があるので不意に起き上がれず、神田は下からアレンをきつく睨んだ。気が弱くない者でも思わず逃げ出したくなるような形相だ。
「どけ」
低い声で言うが、アレンはにっこりと笑う。
「嫌ですよ。こんなに近くで君の顔を見ることなんて、そうそうなさそうですし。今は」
「邪魔なんだよ」
アレンは笑顔を崩さない。
そこで気がついた。アレンの今の笑顔は、変だ。
いつもの作り笑顔とも違う、薄気味悪さがある。
「よっぽどイライラしていたんですね。僕は、君がここに来る前からずっとここにいたんですよ。誰かが上がってくる音がしたので、影に隠れていたんです。誰か、といっても、来るのは神田だって分かっていましたけどね」
気付かなかった。いつもならいくら機嫌が悪くても、気配には敏感なのに。
「っていうか」
アレンが手を伸ばしてくる。
なのに、動けない。金縛りにあったように、身体が動かない。
アレンの笑顔が、神田の身体を射止めていた。
突き放せばいい。なのに、なぜ
「神田が今日ここに来るっていうのは、分かってたんですけど」
アレンの指先が、神田の頬に触れた。
「……なんでだよ」
「企業秘密です。ねえ、うわさ、聞きました?」
指先は、頬にかすかに触れたまま、動かされない。
「僕、部活に入ろうかと思って。神田がいる、剣道部もいいなあって思ってるんです。ねえ、素振りするんでしょう?見学させてください」
チャイムの音がした。予鈴は階段を上っている時に既に鳴っている。だからこれは本鈴だ。
それで気がついた。こいつも、授業だ。そして、ここは高等部棟。アレンは中等部の生徒だ。
「……おい。お前、授業じゃ……」
「神田、今日は食堂に来なかったでしょう?だから会いに来たんです」
おかしい。
こいつは、おかしい。
「ねえ、起きて、素振りを見せてください。気になっていたんでしょう?僕が、剣道部に入るかどうか」
怒りで顔がカッと熱くなった。
「そんなこと、気にしてねえよ!」
アレンの指を払いのけ、神田は上半身を起こした。突き飛ばされたアレンは、後ろに尻餅をついた。
「……なぜ、そんなに怒るんですか?だって、練習に身が入っていなかったでしょう」
「他の奴らがろくに練習をしないのがムカついていただけだ!」
「それなら、それだけの話でしょう。なぜ、そんなに怒るんですか?」
アレンが身を起こしてこちらに近づいた。神田は思わず逆に身を引く。逃げる必要なんてないのに。
「……今日は、素振りをしないんですか?」
「……うるせえ……」
アレンが、先程と同じように手を伸ばしてきた。
動けない。
なぜだ。
「精神が統一できないから?」
アレンの手が、今度は頬を包んだ。
「僕のせいで……?」
気がつくとアレンの顔が間近にあって。
唇が触れ合っていた。
「…………」
神田はしばらく、自分の身になにが起こっているのか理解できずに、呆然としていたが、力いっぱいにアレンの身体を突き放した。
「……!てめえ!なにしやがる!」
先程と同じように尻餅をついたアレンが、無邪気な顔でこちらを見上げていた。
「なにって、気持ちを落ち着かせてあげようと思って」
まるで握手でもしただけであるかのようなように言われて、頭に血が上った。
「落ち着くわけがねえだろ!」
アレンが、他人に向ける、いつもの笑顔を浮かべた。
「どうして?他人に気持ちを動かされる神田じゃないでしょう?逆に動揺させてしまいましたか?」
「!!!」
神田は、拳を振り上げた。鈍い音がして、アレンが床に転がる。
「二度とオレの前に姿を現すな」
吐き捨てると、神田はドアに向かって歩き出した。
今は、何も考えたくない。
とにかく、1人になりたい。
こいつの前に、いたくない。
ドアノブに手をかけた時、小さな声がして神田は思わず振り向いた。
口から一筋の血を流したアレンと目が合う。
アレンは、じっとこちらを見ていた。
「あなたがそこにいる限り、僕はあなたの側にいます」
神田は、乱暴にドアを閉めた。
アレンが部活動を始めるようなことは、なかった。
--END--