「少年たちへの賛歌」
今日の彼は、少しそわそわしていた。

 彼がこの会社に入ってきたのは今年の春。幼い空気は隠し通せないが、それでもスーツを着こなしている姿に好印象を持ったものだ。

 武藤徹。高卒で入ってきた彼はまだ19歳だ。

 ふわりと柔らかい笑顔で笑い、どこか天然で抜けたところのある彼は、今や社内でアイドル扱いを受けている。

 いや、社内の人間の中で彼をアイドル扱いをすることがブームになっていると言う方が正しい。参加していないのは所長を含む、数人の中年社員だけ。それでも、アイドル扱いはしていなくとも「こんな息子がいれば」と話しているのを聞いたことがある。

 20人程の小さな事務所で、唯一の女である私、森下を差し置いて男の彼がアイドルとはどういうことか、と憤ることもない。なぜなら私も彼をアイドル扱いしているからだ。

 とにかく彼は笑顔が明るい。大人になると愛想笑いを覚えて、誰にでも本当の笑顔で接する、なんてことはしなくなるものだけれど、彼に限ってはそんなことにはならないのではないか、と思う。

 優しい目で笑い、優しい声で話す。それは下にやんちゃな妹と弟がいて、さらに弟分が2人いるという長男気質からなのか、田舎に住む者が持つ無防備さから来るものなのか、分からない。

 私はずっと、彼の住む「外場」を、閉鎖した得体の知れない村だと思っていたのだけれど、彼のような人もいるのだと印象を改めたものだ。

 ちなみに私は年下には興味はないし、恋人もいるので、彼を男として意識したことはない。だからこ彼をのファンクラブの1員として毎日を楽しめるのだ。
 そう、よく可愛い子がいると社内のモチベーションが上がるというけれど、この会社では武藤くんがいることで社内の空気が華やかなものになっていた。


 ここまで話せば彼がどれだけいい新入社員なのか、理解してもらえると思う。ちなみに素直な性格をしているので、仕事も早い。申し分なしだ。ただ、すでに煙草を覚えているところがネックだが、そんなところも私たちから見れば可愛らしいし、喫煙スペースで世間話ができる、というのが私たちの密かな喜びだ(私は吸わないのだけれど)。

 そんな武藤くんには、どうやら恋人はいないらしい。社内のファンクラブ会員でリサーチした結果だ。
 基本的に仕事が終わればまっすぐ家に帰り、休日は弟たちと過ごすのが常。入社した時からそのスタンスは変わっていない。たまに休日に溝辺で姿を見ることがあっても、弟たちに囲まれている。


 その彼が、今日は朝から何度も時計を確認し、そわそわと落ち着かない。


 みんなその様子に気付いていて、彼の様子を伺っている。

「森下、どう思う?」
 武藤くんの様子を給湯室から見ていた私に、営業の本田くんが声をかけてきた。
「どうしたのかしら。時期的に…バレンタインとかはもう少し先だし、何かあったかしら?」
「女関係だっていうのか?今のところあいつに女の影はないぞ」

 本田くんは20代半ばなので(私と同期だ)、武藤くんとは1番年が近い。武藤くんの近況を本人から聞き出すのは、大体が彼の役目だ。


「本人の口から出る言葉なんて、分からないでしょ。……まあ、あの子の場合、嘘がつけないから信用できると思っていいだろうけれど」
 というか、彼が嘘をついたところを見たことがない。それでも大人社会をそつなく過ごしているのだから、たいしたものだ。それも完全なる天然で悪意がないのが、さらにたしたものだと思う。


 年が明けてしばらく経って、仕事も落ち着いてきたところ。もうすぐ決算の時期がやってくるが、今はいたって落ち着いている。仕事がらみとは思えない。


「……あ、また時計見た」

 今の時刻は午後3時。正直、私の中で1番仕事を放棄したくなる、だるい時間だ。
 そんな時間に武藤くんは緊張した面持ちで時計を見上げ、ふうっと溜息を漏らして席を立った。そのまま喫煙所に向かう。

「……なんだ、休憩か?ただ疲れてただけってことか?」
 本田くんが訝しげに武藤くんの後姿を見て言った。
「それにしては、今の顔。心配事がなくなった~みたいな、微妙な顔してたわよ。それに、今日あの子が煙草吸いに行くの、今が初めてなのよ。何かあるんだわ」
「……さすが、会長。よく見てるなあ」
 女の方が勘が働いて観察力があるからか、今や私が武藤徹ファンクラブ会長扱いだ。

 喫煙所に行った彼を追って、何人かが煙草を持って立ち上がった。彼の様子を伺いに行くのだろう。
 あえて断っておくが、私たちは仕事はきっちりこなしている。でも、仕事の中に小さな娯楽があってもいいでしょう?

 後で彼らに武藤くんの様子を聞いてみると、ちょっと、とだけ言って笑っていたという。歯切れの悪いその様子に、社内の不審はますます深まる。営業の人間までもが外出を控えて武藤くんを気にしている。


 3時を過ぎてからは、武藤くんからそわそわした空気が消え、それまでの遅れを取り戻すかのように精力的に仕事をこなしていた。
 つまり、3時までに何かがあったのだ。彼をそわそわさせるほどの何かが。


「もしかして、好きな芸能人のイベントがあったけれど行けなかったとか?」
「いや、あいつ若いのに芸能人にはかなり疎いみたいだし、都会じゃあるまいしそれはないだろ」
「外場でなんか行事があったとか」
「それなら武藤なら仕事休んで手伝うんじゃないか?」

 今や、社内ではいろいろな憶測が飛び交っている。それほどに武藤くんの挙動不審は威力があるのかと、今更ながら感心してしまう。かくいう私も相当気になっているのだが。


 そんな中、時間は定時を迎えた。


 武藤くんは皆に注目される中(本人は全く気付いていない)、素早く帰り支度を始めた。夕方から精力的に仕事をしていたのは、定時帰りをするためらしい。
「すみません、お先に失礼します」

 お疲れ様~…と彼を見送る社員の顔には怪訝なものが浮かんでいる。武藤くんがさも予定があるかのように帰るのは初めてだからだ。
 バタンと扉が閉まってから、私たちは事務所の中央に集まった。

「どういうことだ?本田、なにか聞いてるか?」
「なにも聞いてませんよ。彼女ができたとかできそうだとかいう話も全く」
「じゃあどうしたんだ?」

 私は窓に寄って武藤くんの姿を追ってみた。
「ちょっと、あの子、駐車場と逆方向に向かってるわよ」
「え!?」

 こうなってはいてもたってもいられない。私たちは一斉にコートを羽織ってビルを出た。

 ……あくまで断っておくが、仕事が残っている者は後で戻って仕事を続けるつもりなので、あしからず。うちの事務所は、成績はいい。



 こんな大人数に後をつけられているとは微塵も気付いていない様子で、武藤くんは足早に街の中心部へと歩いていた。学校や商店街が集まっているため、学生や主婦など人が多くなる。

「この辺て飲み屋とかレストランも多いよな。まさか誰かと密会か?」
「まさか武藤に限って!つうか飲みはないだろ、車だし」
「でもあの村に行く道なんか空いてるし、大丈夫だろ」
「待って、なんかきょろきょろしてるわよ」

 制服にコートを羽織っただけの私は、周囲を見回す武藤くんの姿に待ち合わせだ、と思った。恋人と待ち合わせをしている時に、よく見る仕草。

 そこはファーストフードやチェーンのカフェが並んだ、比較的学生が集まる場所だ。実際、近くにある私立高校の生徒の姿が多かった。いい大人が集まってる私たち集団に遠慮なく視線を向けてくる。……いいじゃない、大人だって探偵ごっこがしたいのよ。

 それでも私たちに気付かない武藤くんも、結構すごい。いや、それだけ待ち合わせの相手を探すのに夢中なのだ。

「誰だ?武藤くらいの年頃ならこんなところで女と待ち合わせもありうるよな」
「だから女とか言わないでくださいよ!おれのオアシスに彼女なんて……」
「おれだって嫌だよ!」
 私だって嫌だ。いや、そうだとしても仕方ないんだけど、分かってもらえるだろうか。大好きな異性の芸能人には恋人がいて欲しくない感じ。あんな感じなのよ。


 やきもきしながら武藤くんの様子を見ていると、彼の顔がぱっと明るくなった。会社で見せるのとはまた違う種類の笑顔。待ち合わせの相手を見つけたのだ。

 その視線の先を辿ると、近くのファーストフードの2階客席への階段から、1人の少年が降りてくるところだった。


 都会的な雰囲気の、クールそうな少年だ。だが嬉しそうに笑って武藤くんに駆け寄る姿には年相応の可愛らしさがある。私があと10年若ければ、ストライクに入ったと思う。


 その少年を迎える武藤くんの顔を見て、私は軽く目を見開いた。


 とても、とても優しい目をしていた。


 彼の目はいつも穏やかで優しいけれど、それよりもずっと優しい目。愛しみを込めたような。


 少年は武藤くんに鞄から出した封筒を出して見せて、得意そうに笑った。私立高校の名前がプリントされている。武藤くんはその様子を大人の顔で笑って見つめ、少年の肩を抱いてこちらの方に向き直った。私たちはさっと物陰に身を潜めた。

 私たちがばらばらに背を向けてやりすごす後ろを、武藤くんと少年が通っていく。


「結構簡単だったんだよ。自信ある」
「あとは合格発表を待つだけってことか~」
「お疲れ様ってことで、なんか奢ってよ。せっかく徹ちゃんが仕事終わるまで待ってたんだし」
「そうだな。何がいい?夏野」
「名前で呼ぶなって!そうだな……」


 2人の会話が遠ざかっていくと、私たちはふうっと息を吐いて2人の後姿を見送った。
「今日、私立高校の受験か……」
「あれ、武藤の弟か?似てないな」
「いや、兄弟は全員高校入ってるから、近所の弟分じゃないか?」
「それで心配そうにして迎えに来たのか。驚かせるなよもう……」

 ファンクラブ会員はやれやれと会社に向かってぞろぞろと戻りだした。
 私はしばらく武藤くんと少年の後姿を見つめていた。


 武藤くんが肩に回した手を、少年が邪魔だとばかりに払いのけ、武藤くんが笑いながらそれをかわす。結局少年は諦めたように武藤くんに肩を抱かれたまま歩き出す。

 武藤くんのその表情、仕草すべてが、とても優しかった。
 私が恋人から向けられるそれらと同じように。


「待ち合わせの相手は男の子だったな」
 気がつくと。本田くんが私の隣で同じように2人を見送っていた。
「驚かせやがって。あ~あ。会社戻る前にコーヒーでも飲むか~」
 彼は伸びをして、先ほど少年が出てきたファーストフードの隣にあるコーヒーショップに入っていった。


 私は1人になる。


 2人の姿は、もう雑踏に消えた。


 あの視線はなんだろう。意味するものはなんだろう。少年の名前を呼ぶ声の優しさは。なんて心地のいい響きで。


 私が詮索することでもない。私は軽く頭を振って、会社の方に足を向けた。

 なんだかとても、恋人に会いたい気分だった。







 その数日後、私立高校合格発表の日。
 武藤くんが受験の日よりもそわそわしていたのは、言うまでもない。
 すごい勢いで定時ダッシュをしたことも。

 私が武藤くんがあんなに挙動不審な様子になるのを見たのは、あの少年が関わることに関してのことだけだったように思う。



 彼が、会社を辞めて、亡くなるまで。


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